fukushima.gif 「フクシマ 放射能汚染に如何に対処して生きるか」言叢社刊

大切な友人から、大切な本が届きました。出版を生業とする彼らの志が伝わってきました。誰もが簡単に読めると軽々しくいえませんし、いってはいけない本でした。それでもできるだけ多くの方に手にとってほしい、そう思ってふと思い出したエッセイがあります。都合の良いところだけ抜書きします。忙しいから積読になってしまっても、それでも大切な本はあり、置き場所を作ることが大切なんです。わたしどもがいうとなにやら言い分けめいてしまいますが、長田さんのエッセイは説得力があります。その上、優しさやユーモアもあって救われます。(Mm)

2009年10月22日の朝日新聞に掲載された、福島出身の長田弘氏の「悦ばしい読書」というエッセイの一部です。

----読書というのは、本を最初から最後まで読むこと、しっかり読みとおすこと、読み切ること、読みぬくこと、読み解くこと、なのだろうか。 そうではない、と思う。むしろ、最初から最後まで読まなければ読んだことにならないと断じるくらい、読書というもののありようを不用意に歪めてしまうものはないのではないか、と思う。
----読みとおすのでなく、読みさす。読み切るのでなく、読み余す。読みぬくのでなく、読み継ぐ。読み解くのでなく、読みとどめる。そうして、開いたまま本を伏せて、あるいは閉じて積んで、自分の日々の時間のかたわらに置く。----本というもっとも古い人間の文化のありようをもっともよく伝えてきたのは、そうしたけっして読み飛ばさせないような本の記憶だったと思う。
----どんなに引き込まれても、読み切れず、繰りかえし読みさしてしまう。 それでいて、読みさしを操りかえすうちに、いつか気づくこともなく、その本の言葉が自分のなかに畳まれていて、一度も通読した覚えがないのに、いつのまにか全体を読んでいる。 読みさすの「さす」は「止す」。中断することだ。本について、中断をかさねながら読むという経験から思い知ったことは、中断を楽しむことのできる本は間違いなくいい本だということだった。
----読書というのは、本を読むというだけのことではないのだ。本を自分の日々のなかに置いて、自分にとって必要な本の置き場所をつくる、そういう日々のあり方をすすんでもちこたえてゆくというのが読書なのだ。
2012.09.04 / Top↑
Secret

TrackBackURL
→http://cafebach1986.blog134.fc2.com/tb.php/154-3638b9f7