49d6dd034c.jpg 「カフェ・バッハ」 田口護さんの45年「コーヒーをめぐる冒険」

素晴らしい記事をありがとうございます。
江部編集長、上島様、田附様に感謝申し上げます。


ところで、このインタビューの最後は次のように結ばれています。
《 コーヒーは嗜好品です。もっと自由に楽しむ時代になっていいと思います。 》
ふと、1970年代の中ごろに鍋島元子さんが、「ベルサイユの音楽」というレコードに付けた解説を思い出しました。マレ、フォルクレなどの作品が収められていますが、ふたりの音楽家の紹介はこんな風です。
《 マレも16歳若いフォルクレも宮廷ガンビストで、ガンバ最盛期の最後をかざる名演奏家であり、名人芸の難技巧とガンバのみに語りうる内容を盛り込んだ名作を残し、何の楽器にも代用できない 不滅の価値を後世に残した 》
そして、現代にマレを演奏することに際して、次のような一節があります。
《 マレを自由に、しかしマレでないものを、ではなく----  バッハのジャズ化の様に初めからアレンジとして紹介される場合は別だが、「これはマレだ」といってマレの音楽とは異質のものが紹介される事には抵抗を覚える。「実体」を知る手間を省いて人は時折「自由にやろう」と主張する。 しかし、「マレを自由に」やる事は大いによいが、マレでないものを自由にこしらえ「これがマレです」と公衆に紹介される事は(中略)これは納得できない。「マレはマレにとどまらなくては」 》
店主の語る「もっと自由に楽しむ」も近い意味合いがあるのではないかと思います。
店主が自家焙煎を始めたころ、まだ「よいコーヒー」は、この「ベルサイユの音楽」と同じく普及啓蒙の最中でした。
《 ----オリジナルに接する機会に恵まれず、例えば絵画の模写や複製にのみ馴染んでいた場合、本物との対面の際「複製の方が鮮やかできれいだったのに(モナ・リザの例!)」という反応が出る事も珍しくない。また妙な例だが、「ラジオ」と聞き慣れ言い慣れていたところに「レイディオ」と聞くとアブノーマルに思え、わざとらしく感ずるという抵抗感があり得る。人は経験を土台に自然不自然を判じやすい。感覚に訴えるところの多い芸術には、 受け入れられる、られない の要因が案外些細なところにひそむ事もある。仮にオリジナルから離れた演奏様式に慣れた場合、「元々こうだ」というものに出あっても初めは戸惑いがあるかも知れない。しかしオリジナルなものを自己のオリジナリティをもって真に消化した者の表現には、どれが正しいかの議論をこえる説得性があるものである。 》
芸術とは比較になりませんが、コーヒーも「感覚に訴えるところの多い」嗜好品です。わたしたちは「もっと自由に楽しむ」を、謙虚に受け止めて「自己のオリジナリティをもって真に消化した者の表現には、どれが正しいかの議論をこえる説得性があるもの」が作れるよう、努力を続けなくては。(BKTC-N)
2013.01.06 / Top↑
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